ショックでもう立ち上がれません。
なれないことは真剣にやったつもりでも空になり消えていくのですね:
今日は自分の未熟さを反省しながら悔し涙を流します。
明日っから気を取り戻してガンバ、ガンバします。
私は被爆体験者としての使命と責任を感じ自分の見た、太平洋戦争、
戦前戦後のヒロシマの事を物心ついた4歳から85歳の現在までの記憶をたどり思い出せる事
書き残したい衝動にもがいてます。
文字嫌いな私、戦後中学にも行けなかった嫌な思い出から、文字に触れる恐怖症になっていました
文字に向かうとまず、頭痛、恐怖に襲われ平常心で無くなる
肉体労働の道を選んだ恥なのに、いつの間にかいいえ、70歳の時ピースボートで出会った
ヒロシマの女学院卒、オーストラリア在住のもりもと順子、絵本作家とのご縁でパソコンで
まずメール、スカイプを教えられオスとラリアから我が家へ3ケ月、4ケ月滞在して教え
ご褒美に、ある時は大阪経て白浜に、ある時は大阪京都、また九州、佐賀から天草四郎、島巡り
時にはヒバ山を越えて足立美術管、玉造温泉、松江城、、石見銀山、日御碕灯台、
とにかく色んな所へ今も目を閉じればはっきりと思い出します。
森本順子先生「絵本作家」は師匠でもあり、姉であり平和を愛する同志でもありました。
今パソコンが触れるのもみんな森本順子先生のお陰と心から感謝しています。
人との出会いで人生は変わるものですね、
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広島市の中心部福屋店の近く三川町37番地長木屋旅館の長女として「昭和13年5月27日誕生」
両親は結婚して数年子供ができなかったので、知人から赤ちゃん、男子を養子長男としてもらい受け
育てていました、6年目初めて母は私を長女として出産しました。
それを弾みに弟、妹、妹と出産します。
そして私が4歳の時太平洋戦争がはじまります、こど?っもの私も勝った、勝ったという声を聴きながら
なぜか我が家では食事の前に、合唱する親指と人差し指の間にお箸を載せて、「天皇陛下さんのご恩
兵隊さんのご恩、よく噛んで頂きますの挨拶をして食事が始まります。
そして何不住なくわがままに育てれれた私は竹屋小学校の1年生になります。
身体検査が済み、赤いランドセルに学用品、運動靴、上履き、を買ってもらい、
「みんなで勉強うれしいなー」「みんなで体操1,2,3」、国民学校1年生このフレーズを繰り返しうたったものです。
うれしい、うれしい1年生も、つかの間、4月に呉が大空襲、今度は広島3年生以上は集団疎開。
1-2年生は縁故疎開、知人、友人、身内の無い人だけの登校許可、あとは縁類に避難。
私はたった一人で父の実家に、家族から離れて初めての夜の寝床に入ると、玄関席の3畳に机一つ、薄い布団上下
寝巻、可愛い枕が一つ、母は一晩も止まらず私を置いて帰るという、私は外庭までついて出て母の着物の裾に
しがみついた手を離せなかった、
母はしゃがみ込んで私の方に両手を載せて「いいかい預けられるお前もつらいだろうが預けるお母さんはもっと
辛い、しかしこうしなければ生きていけないの、7歳の私も生きていけないその言葉が重くのしかかり、
我慢することを覚えました。
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ブログを書かされていました。
先生が亡くなるとぷっりやめてしまいました。
しかし今また再度文字に向き合いたくなりました。
それは遠くからそーと私を見守り事あるごとに東京から広島に駆けつけてくださる
下向きな人間愛を感じる、優しい笑顔を注いでくれる姿、言葉少ない瞳の中に、肉親のような親しみを覚える
この度、思いを共有し何か、戦争、原爆、復興、どんな境遇に生かされようと、
平和公園を建設し、世界平和実現への一歩を踏みだした先人の方々の道するべを
私たち被爆者はどうあるべきか自問自答し何か今できることはと言葉にしてみた
被爆者でない彼女も共鳴し、今被爆地から世界へ発信できることは、
1戦争は愚かなこと、原爆、核兵器は絶対悪、人類と共存できない、
今ヒロシマ人としてまた被爆者の一人として、何ができるか、
真実を語り、戦争は愚かなこと、核兵器は絶対悪、約50年前で有っても「4キロ四方」を一瞬にして灰の街へ
日進月歩していく中で科学兵器、原爆、水爆は地球破壊、人類の破滅につながることは間違いないと思います。
私たち被爆者の声はどうしたら世界へ届けることが出来るでしょうか。❓
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そうですね。
こんな姿を天国の大紀が見たら悲しんでることでしょう
大紀は小学生6年生ごろから学校へ行く前に私のところへ来て
パソコンを教え一緒に朝ごはん食べ帰りにはまた来ていろんなことを教えてくれ
中学しか出てない私が、かたくなに文字のない世界で生きると決意してるのに
7番目の孫奈笑が私の日記を本にしてくれた、以後9番目の孫が数冊今天国へ召された
11番目の孫が数冊出版させてくれた、私はただ、ただありがとうと言う15年が過ぎた
振り返れば3人に孫たちに支えられ今日まで何年になるのだろう、、、
記録は残っているので調べてええばわたる
夢中、でなりふり構わず思いのままに回いを重ね来年50周年になるのではと思う
それまで元気で後輩に広島市民平和の集いを継承したい。
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大紀苦しみから解放されて宇宙に羽ばたいていますか。
おじいちゃん、おばあちゃん森本順子先生に会えたでしょうか:
キット優しく暖かく抱きしめてくれたでしょう。
皆大紀が大好きだったから;;;;;
ままはやっと涙が止まりました。
そしてこれからも大紀と二人三脚で活動を継続していきます
東京の裕美さんが支えてくださると約束してもらいました。
ままは、命ある限り今の活動を続けて行きます。
母が原爆で兄を奪われた時今の平和公園でお骨を探しながら
私立商船学校の生徒全員材木町付近でたれもの疎開作業中と聞き
その付近のお骨をこれは秀幸、これはお友達少し大きいのは先生、
いいや全部、秀幸、お兄ちゃんと言ってかぶっていた、日本手ぬぐいに
包んで持ち帰り木の墓碑用を立てました。
あの灰の町広島は今も瞼に残っています。
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大紀がラインくれた最後の言葉
「ママがいてくれて本当に幸せでした」
このラインをくれたとき大紀自分の命の終わりを悟ったのですね
岡山と広島では飛んでいくこともできず
駆けつけたときはもう無言でしたね。
でも大紀は私の心の中には永遠です
生ある時も天に召されてもママの心の中には大紀は
愛しい孫であり平和を愛する同志であり師匠でもありました。
最後にメール、に残してくれた言葉
「ままがいてくれて幸せでした」
この言葉を抱いて命ある限り前を向いて歩いていきます。
どうか天国から見守ってください。
優究太然居士
俗名大紀
まーまより
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始めに
両親のロマンから
父は広島の山間部斉木郡津田村字花上旧家の次男として生まれた。
分家に子供がないので養子長男として迎えられた
昔は財産を守るために従妹同士の婚約、断る勇気がなく思いきって家出をした
ちょうど隣村から北海道開拓団の応募がありそこに入団して根室に着いた
そして家族に無事でいることを知らせたいと電報電話局に行った
そこで女学校を卒業して電話の交換手をしていた母と出会う交際が始まる
母は長女で下に妹が4人弟が2人祖母は未亡人で泉山家の柱的存在だった。
お互いが好きになり家出を決意するほど惚れてしまったと言う
根室から夜汽車乗っての駆け落ち母の話では決意して家出したものの
連絡船のドラが鳴り汽笛を聞いた連絡船が北海道函館港を離れだすと
さすがに涙があふれ出たという甲板から北海道に手を合わせ「親不孝をお許しください。」
私は自分で選んだ道で必ず幸せになりますからとしばらく立ち続けたという
父も家出、母も家出、行く当てもない。
青森に着いたストーブに当たりながら思案していたら1枚の張り紙が飛び込んできた,
その紙には 店員さん、下足番、募集 浅虫温泉、青木旅館、電話番号が書かれてたと言う
そこで二人の新婚生活が始まる、「今日はここまで」
]]>なぜ、なぜ、と自分に問いかける
何事に対しても
熱く燃える情熱が湧き上がらない
以前は信念岩をも通す
この言葉を軸に何事にも真剣に取り組んできた
そうあれは5年前コロナにかかり入院生活で
私の何かがくるってしまった、
今思い出せばはっきりと思い出す
8月8日自転車で転倒右ひじの複雑骨折全身打撲
12月27日やっと退院
それから人格が変わった
何かに取り組む情熱がどこかえ、、、、
でも人生はやっぱり楽しいもの
新しい道が見えてきた
仲間と言える同志と愛と平和の御旗を立てて
]]>
天災、人災何でのおじゃれ
1度限りの人生を泣いたら負けだと教えてくれた
お母さん
広枝は85歳になりました
今もはっきり覚えています
この地球上に数え切れない命の中で
言葉をもらった人間に生まれたことを感謝してね
感謝から生まれる情熱で世間の荒波超えて行け
いつかお前ええが親孝行したいと思う時が来たら
周りの人に優しくしてね「それが母の口癖」
母が亡くなって3回忌を終え私は平和公園に立った
食べるだけなら野良猫だって食べていくんだよ
言葉をもらった人間に生まれたからにはね
多少なりとも人様のお役に立ってね
人様のお役に立つということは
何かをさせてください、へりくだる事ではない
何かをしてあげたおごった気持でもない
今お前にできることを一生懸命努力すること
それでいいんだよ。
今も聞こえる母の声、なぜか涙がひとしずく
]]>
朝な夕なに尋ねてくれた
朝は1時間学校帰りは2時間ぐらい来ては
まず最初にアイウエオのローマ字を紙に書いてくれた
70歳の手習い初めてパソコンを触れた。
それはピースボート出会ったオーストラリア在住の森本順子先生「絵本作家」
との連絡が取りたいためパソコンを購入したのである。
そして毎日日記を書いたすると大学生になった7番目の孫が
ばあちゃんの言葉は私たちにもわかると言って本に字てくれた
私は題名を菜の花の様にと頼んだ、
息子が私にとって初めての内孫、息子が真剣な顔をしていった
母さんこの子の名前は菜笑と名付けたという
岩国の錦帯橋に桜を見に行った
そしたら桜も見事だったけど裾いち面に菜の花が咲き誇っていて素晴らしかった
1度の人生群れの中で笑顔で生きてほしい,菜笑となずけたよと言う
私は初めての内孫長男の思い道理にしなさいと祝福した
私は今5人の子供に、15人の孫15人の曾孫の囲まれ何不住なく一人暮らし
わがままなこの上ない幸せな毎日を送ってる
]]>
高熱にうなされ、記憶さえ薄れ8月8日から12月27日まで入院
隔離のような状態で家族とも面会できず、ただ部屋でテレビだけ
看護婦さんが点滴、注射、と薬の配布、3時過ぎに1回、先生の回診、
頭の打撲と右ひじの骨折プレートを入れ8本のビスで固定半年で削除の予定
しかし退院時、先生の回診で言われたもう年だから今更痛い思いをせづ
このままにしませんか、私に問いただした、先生鉄板を8本のビスで止めてるのでしょう
そうだけど手術すると痛い思いと時間もかかるとのこと、私はそのままで退院、
今力は減少したものの、日常生活はヘルパーさんの助けで、ただ重たいものは持てない
でも家族に迷惑をかけず、一人で生活ができることに感謝をしています。
最近友人と連絡を取りながら何か新しいことに挑戦する計画を立てています
]]>
プロジェクトを同志が立ち上げてくれました。
そこから平和への思いを発信し世界恒久平和実現の一助になることを祈念します
発起人 佐藤裕美 被爆者 佐藤広枝 私はNPO法人HPS国際ボランティアの代表をしています
「広島生まれ、広島育ち今年85歳の被爆者です、裕美さんのお陰で広島の真実。戦争。原爆そして
廃墟から立ち上がった人間の逞しさ、素晴らしさ、人間愛、また碑文に刻まれたヒロシマの心、私は
その言葉に感銘を受け38歳から平和公園に立ち「広島市民平和の集い」を引き継ぎ継続してきました
85歳の今この会を継承継続してくださる後輩に託す時期が来たと思います。
しかし被爆者が高齢化していく今、身体が動く限り活動を続けて後継者にバトンタッチします。
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母は根室でカニの缶詰め工場を営む泉山鉄蔵、母ハルの長女として生まれ
可愛がられ当時女学校卒で電話の交換手、職業婦人として働いていました。
そこえ父が広島から開拓団で根室へ父は電報を打ちに行って母と知り合い
家に招待されてるうちに恋が芽生え長女の母は許されず駆け落ち今井の張り紙で
広島に返らず、一枚の張り紙を見て浅虫温泉へ。張り紙は店員、下足番募集 浅虫温泉
二人はすぐに尋ね面接、即採用されて家まで用意して貰ったという、兄の誕生
6年間そこで働いて広島に帰ると義兄が旅館の経験があるなら旅館をしたらと
広島市の中心地に長木屋旅館を開業、兵隊さんを送って応援してくれました。
私はお嬢さんと言われて何一つ不自由なく可愛がられて国民学校1年生になりました
ところが空襲が激しくなり4月呉が大被害、次は広島、3年生以上は疎開
1-2年生は、縁故疎開、友人、知人、親戚のある人は、そこに疎開、そのほかの
の人だけ当校良し、私は父の実家へたった一人で預けられる。
我儘放題で育った私が初めて我慢をすることを覚えた。
]]>
私は広島生まれの広島育ちヒロシマ大好き人間の85歳の被爆者です
年輪を重ね今伝えたいことが胸の中にたくさんある事に気付きました
ここで両親のことを少し話しておきます
父は広島県佐伯群佐伯町津田字花上旧家の次男で生まれました
分家に子供がいないので養子長男として分家に
しかし田舎では財産を守るために従妹と結婚を強いられ
妹の様に可愛がっていたタケヨをとても夫婦になれない。
当時北海道へ開拓団の募集があり結婚式の日が出発無我夢中で
その団体に入り北の果て根室に着いたそうです。
家族にせめて居所を知らせたく電報を打ちに電報電話局へ
そこで明治生まれの母は職業婦人として働いていて、
親しくなり祖母に紹介するとどこの馬の骨とも分からない者に
娘はやれないと断られ、二人は手に手を取って母のお金を頼りに家で
夜汽車に飛び乗ったそうです
行く当てがなくまず北海道を離れることを考えて連絡船に乗ったと言う
母はドラの音が鳴り汽笛が鳴ると船が岸を離れる。
そこで初めて親不孝をお許しください両手を合わせ涙が止まらなかったと言う
北海道、函館港が見えなくなっても甲板にたち尽くしたという
でも父に心底惚れてこの人に命を懸けると誓ったという。
青森に着き待合室に1枚の張り紙「店員、下足番、募集の張り紙、浅虫温泉」
二人はそこで書体を持った。
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10代のころ医師会の準看護婦学校にに入学したとき
担任の岡本先生の女らしさに引き付けられました
どうしたらあんなに女性らしいしぐさや笑顔ができるのか
私は中学3年生の12月〜19才5月まで4年間北海道中標津字北中標津
飛行場後の開拓団に暮らす母の妹の家に兄弟4人であずけられました
学校迄歩いて1時間地元の人たちは交通機関がなく馬。馬橇、スキー
私はどれにも乗れないまま中学3年生で1週間も学校へ行けませんでした
卒業だけは出来たのですが、英語も数学もちんぷんかんぷん。
母を往診してくださる先生の所へ住み込みで働き。准看護婦養成所に
入学し一生懸命頑張り、16人の責任者として逓信病院へ研修に、
しかしそこで頑張りを認められ、可愛がられたのが運命を変えました
乳癌の手ずつで私の持ってるホウロウうの洗面器に幹部を入れられ
それを見て私は気絶しました。
其れが許せず国家試験を目前にしたやめ広島バスへ入社
そこで学歴社会を知り以後自営に現在も独立独歩で生きています
そんな今出会った一人の女性に私はぞっこん惚れました
]]>
心のときめき、夢が広がる、85歳の私が胸を躍らせ前を向いて歩ける
友ありてこそ希望というその先に使命という道があるならば私は
今その道を歩きたい、
友と手を取り緑の草原を菜の花畑を動揺を歌いスキップしながら
明日の歌を唄うの・・・・
そして考えるの、私たちに何ができるか
母がいつも行っていた。食べるだけなら野良猫だって食べていく
言葉をもらった人間に生まれたからには多少でも人様のお役に立て
それは何かをさせてくださいへりくだる事ではない、
何かしてあげたおごった気持でもない
今お前にできること、一生懸命努力することだよ
なぜか今その言葉がよみがえる、なぜだろう
]]>出会いから信頼関係で固いきずなで結ばれる友情
いつしか同じ山頂を目指す同志になり語り合える喜びは
言葉をもらった人間に生まれた最高の幸せです。
東京と広島には離れていても時代の進歩で
電話、メール、スカイプ様々な形で連絡、意志の統一することができる
想いを共有して同じ目的に挑戦することもできる
私は広島生まれ広島育ち戦争、原爆を体験した被爆者
広島市は広島の復興を祈念して「広島市民平和の集いを」開催10年間開催
予算がないということで廃止、私はそれを引き継ぎました。1988年
以後毎年1回広島市民平和の集いを開催してきました。
歌もカセットテープにして1万本作り発表会を続けてきました。
今新たに被爆地広島から世界へ新たな平和へのメッセージを送る準備しています
それは私の友人であり賭けがえのない同志裕美さんです
廣枝
]]>
しかしコロナの最初にかかり一人住まいを始め今も続いています。
昨年8月8日に自転車で転び骨折して入院なんと12月28日まで
すっかり体力も、気力も衰え年齢のせいにして、世捨て人に
なった気分、すべて後継者に託し世捨て人になった気分
毎年出版する本にもコメントを書かなかった。
平和活動48年今年初めてかっどうを継続する心を失った
そんな私に友人が高知の中学、大学への依頼があり受けて
友人二人がサポートして連れていくとのこと、断れない
行くとお世話くださった方々も、先生も生徒さんも大歓迎
真剣に聞いて下さる姿に感銘を受けました。
戦争を知らない、原爆を知らない「書物では知っている」でしょうが
そんな生徒さんが全員感想文を送ってくれました、
私はこぼれる涙を抑えながら読みました
戦争を知らない、原爆を知らない生徒さんがこんなに真剣に聞き取り
自分の意見。想いを言葉にして送ってくれる。
愛しさと頼もしさに胸が熱くなる
この子たちはちゃんと学んでる
戦争は愚かなこと、核兵器は人類と共存できないこと:::
]]>
それは数年前はっきりとした日時は思い出せない、しかし私のイベントには参加
そーと見守っていて済んだ頃に声をかけて励ましてくれる
彼女主催のイベントにも参加し知人から友人。今では掛け替えのない同志で有り
パートナー
]]>いづれの生徒さんもまじめで、姿勢を正して聞いて下さり感謝します
またお世話くださった方のご配慮、受けてくださる諸先生方の真剣な姿勢にも感心しました。
私は戦争、原爆、終戦、を体験した一人として真実を語り感想を聞きたいと願っていました。
普通はグループでまとめて感想を下さるのですが、なんと全員から、驚きとうれしさの感動の中で読ませていただきました
ありがとうございます。感謝
]]>
どんなスケジュールなのか引率者にすべてお任せ
与えられた時間をしっかり務めること
今回は少しデータをもっていくけど相手を見ながら
その場に伝え安い方法
会場の皆さんのお顔を見ながら被爆体験、被爆者の願いを話す
そのために原稿を持たないと決めた
でもヒロシマ人として被爆者として平和を希求する一人として
思いのたけを時間の許す限り話したい。
]]>
懐かしくまたお墓という場所は思い出が走馬燈の様によみがえるものですね
今お墓に眠る順子先生は、私が生まれて初めて,師匠とも姉とも心から惚れて
お慕いした人です。
その肩が亡くなられて丸3年、息子さんがオーストラリア、シド二-から訪ねて
下さり、お墓参りができ昼食をともにし語り合いました。
懐かしくホットな気持ちになれ今もその余韻が残っています。
]]>
再度出会い心の絆を結び共に語り合いながら登れる喜びを噛みしめています。
私は広島生まれ広島育ち井の中の蛙大海を知らずの言葉道理生きてきました。
そんな私に声をかけ、笑顔で手を差し伸べ、手を引いてくれる人が現れた今
私は長生きをしてよかった85歳で新しい道に夢と希望抱いて歩ける、
奇跡ですよね
私は今5人の子宝が15人の孫をそして曾孫も15人その中で皆健康で
心身ともに元気で有れ、それを見守人生で満足と思っていた
しかし人間は欲が深い者なのですね
コロナと怪我で8月8日から12月27日まで入院生活
通院でリハビリーに通う中一人生活ができることが最終目的
しかし体が動けるようになると欲が出てくる。
何かできることは、やれることは、と思いをはせる
そうだ物心ついた4歳の時始まった太平洋戦争
12月8日正午トラトラトラトラという言葉が耳に残っているのは
一体何なのだろう::::
尋ねるにしても当時の人はもういない
今私に言えることは
戦争は愚かなこと 無差別殺人の原爆 尊い命を一瞬にして数万人も飲み干した
我が家でも兄を始め数人の命が奪われた。
生かされた私に今できることは この問いに答えることが生きる事でしょう。
されど難しい事ですね。
]]>
私は惚れたといった瞬間、自分に問いかけました
惚れるということは、親子の愛、兄弟愛、友情、親友。人間愛/?
きっと人間愛 、見返りを求めない愛、でもそれは情熱に変わる
今、私がその人に寄せてるのは信頼関係で生まれ、結ばれ同じ山頂を目指す同志
この出会いに心から感謝し感謝から生まれる情熱を力にガンバ、ガンバ:::
]]>
本当に言葉道理彼女は東から私は西、生まれ、育ちも大違い
誰もが登れる人生峠での出会い会う会を重ねるうちに忘れられない存在から
友情が芽生え志迄共有し同じ山頂を目指す同志として心のきずなが結ばれた
私は今最高の喜びの中で人間の最高の宝物、勇気と冒険心をもって新たな道に
共に踏み出せる幸せを体全身で味わっている
人間いつまでも青春と言う言葉があるが、私は今そんな気分
素敵な出会いに感謝して今宵は夢で語り明かそう。
敬愛する裕美さんへ
廣枝
]]>
また実現出来るか瞼に浮かぶ裕美さんの笑顔と語り明かしたい。
裕美さんと呼んでみると満面の笑みで答えてはぐしてくれる
暖かいホットなホットな気持ちになる。
今夜は夢の中で明日の希望を語りましょうね
親愛なる裕美さんへ
廣枝より
]]>本当に長い人生事故はたびたび、また病気も心筋梗塞3回その都度救急搬送され
1回目は5年前心臓に3センチが2本、市民病院、担当医は三浦先生、何とか元通り体に回復
1年後又も心筋梗塞救急搬送され前回同様2本に3センチまた退院後すぐ社会復帰
また10ケ月後またまた心筋梗塞3度目で心臓6本全部にステントは入り助けられました
退院後すぐに社会復帰、今は一人で日常生活ができています。
1泊2日ぐらいあるいは2泊3日ぐらいの小旅行は出来る様になりました。
病院通いも月に1度一ケ月分の薬で対応でき食事制限もなく悠々自適の日々を送っています。
初めて東京の学校とリモートとかでスピーチで講演させていただける、初体験、頑張りたいと思います
人間は長生きするものですね色んなこと教えられ、母が言っていた人は死ぬまで勉強だと
新しい出会いがある度に人は成長していくものですね。
ガンバ、ガンバと鼻歌でスキップするような:::::残りの人生を送りたい 廣枝
]]>人生のパートナーとしてこれから先、新しい道に足跡を残したい
心重ねて夢に向かって手を取り合い一歩踏み出そうとは夢にも思いませんでした
今まで歩いてきた道を後継者にバトンタッチしてら余生をのんびりと;;;;
それが心通わせ同志として同じ目的に向かって一歩踏み出さる喜びに
尊敬する先輩が言っていた、友人という言葉は幅広いが同志として
心重ねて同じ道に歩ける人は限られている
そんな言葉を思い出した
人生登山の8合目でたまたま私は西から彼女は東から出会い
同じ山頂を目指す同志として心重ねた
お互い歩いてきた道は月とスッポンほど違う
しかし人間として出会った時から心引かれ
言葉を交わすうちに親しくなり
今は同じ目的を持つ同志として人生峠の山頂を::::
この出会いに感謝します。
そして自分のできることにガンバ、ガンバです。
]]>
信頼できた人はは何人いたのでしょう。
ふとそんなことを考えてみた。
まずおじいちゃんおばあちゃんと、肉親以外で甘えた人は生まれたときから何人いただろう。
思い出を偲ぶとお顔まで浮かんでくる.そおっと涙がにじんでくるホットな気持ち
思い出は宝物、何歳の時でもその時のままの状況が浮かんでくる
人間の心ってすごいですね。人間の知恵を生かして文明を文化の足跡を残した。
あとで
]]>
あなたの笑顔とパソコンを見る真剣な眼差しにパワーをもらいます。
何事にも真剣に取り組む姿は私にはまぶしく見えます
そしてその実行力は登山家精神そのものなのですね
私は思いついたが吉日の精神で後先考えず走り出す
尊敬する順子先生から野生馬だと名づけられ
良い表現だと受け入れ今もそお思ってます
しかし、今裕美さんと出会い多様な活動をしておられる姿
眩しくも輝いています。
私もそろそろ野生馬から人としてまた被爆者に一人として
使命と責任があるとすれば思考しながら実践していくために
今一度平和公園に立って見ようと思います。
広島市民平和の集いは命ある限り続けていきます。
本の制作は大紀と大仲専務にタッチしました。
裕美さんに平和を愛する同志として二人をお願いします
38歳の時平和公園に立った初心に帰り、
郷土愛とは、人間愛とは、ヒロシマに生まれ広島に生きた
被爆者の一人として今私にできることは?
この問いの答えをさがしに平和公園に時間の許す限り立ちたい。
]]>
初めて知りました。
大好きな順子先生にメールとブログを書くことを教えられ
それだけしか触れないで人任せ
最初は大紀の姉が、その後大紀が中学生になって今日まですべて
サポートしてくれていたので私がパソコンに触る事は気まぐれに
ブログを書く時ぐらいでした。病やけがの為ぷっり。
今裕美さんに出会ってブログも始めてみたい;;;
そして心の中にあるもやもやも吐き出してみたい
今そんな気持ちで何から手を付けたらいいのか
ただ順番に物心ちいて記憶に残っていることから
そう思えば約80年間どう、長い年月どうまとめられるかですよね
1誕生 「地名、環境、場所、家業、家族構成」
1物心付いた頃 何をしてたか
1小学1年生 後で
]]>40の手習い言葉があるが85歳の手習いとは聞いたことがない
しかし何としてもほんの少しでもいいや挨拶ぐらい;;;
と思えば差し伸べてくださる手にすがりたい
でも思い立ったが吉日、と言う言葉もある
ならば前を向いて歩いてみたい。ガンバ、ガンバ
]]>優しくって、逞しくって、愛おしさ誘う裕美さんお早うございます
貴女の根性と努力、実行力には人間の生き方として尊敬します。
その姿はまぶしく、笑顔は私の心の中で元気の源になってます。
不思議な出会いですね。
私を素直な童心にさせて一歩前進する勇気を与え
手を差し伸べてくださることに感謝します。
母が言っていました
何事にも遅いということはない
気付いた時が出発そこに新しい世界がある
ガンバ、ガンバ
敬愛する裕美さんへ
廣枝
]]>
自由本歩に生きてる私を野生馬だと言いながら可愛がってくださった
絵本作家森本順子先生、私のことを野生馬だと、ではお姉さんはサラブレットと言い返す
サンキュウ、プリーズ言えない野蛮人、と叱りながら、あんたさんには恥をかかせたくない
自分の部屋に連れて行き、最小限の単語を教えた。
約一120日間一緒に過ごす中、わが道を行くで日本語だけで通すので
帰国後、オーストラリア在住「移住」にもかかわらず時には1ケ月、時には40日滞在して
私にパソコンを買わせ まずアイウエオから教え、文章作成、ブログの書き方
、メール、ご自分のオーストラリア 住所、電話番号 郵便番号を書き机の下敷に
以後年に4回必ず帰国して旅行に連れて行って下さった、今も目をつむるとお顔が見える
心から始めてお姉さんと呼んだ人、絵本作家森本順子先生今も私の心に;;;
そして今新しい信頼できる友との出会い夢が広がり心がホットな気分。
お休みなさい
]]>それは7歳の時原爆ですべてを失った
長木屋旅館のお嬢さんから一変、農家の居候に
天と地という言葉があるがまさにそれである
我が家は決して大きな旅館ではないが
お父さんの義兄が連帯副官で有ったためと聞く
それが原爆ですべてを失いい命からがら助かった
私は小学校一年生その時のことは忘れられない記憶の一つ
旅館の女将さんから農家に転じても命があったことが有り難い
私の顔がみれる、お前の顔が見れる、太陽が拝める
生きてる、生かされてるんだよ
いいかい家が焼かれた、お兄ちゃんが死んだ
可愛がってくれた人がいなくなった
そんな気持ちを爪の先に少しでも持ったらね
それは不平不満なのそこからは何も生まれない
でもお前の顔が見れるお母さんの顔が見れる
これが生きてる証
家を失ったも兄ちゃんが死んだ、そんなこと
爪の先に少しでも持ったらそれは不平不満、そこから何も生まれない
活かされたことに感謝して感謝の気持ちを情熱に変経て生きていこうね
そして能登周辺のお骨を拾い始めた。これはお兄ちゃん、お友達
そこ史大きいのは先生か、いいや皆お兄ちゃん;;;;
そして田舎へ帰り農、、なれない仕事に体を壊し
章は27年出来たばかりの市民病院に入院、 また下手な長文
]]>
今日能美島の息子が管理している別荘に行ってきます
素晴らしい瀬戸の風景を息子に頼んで送りますね
今回は一人で行きますが
今度必ず裕美さんと行きましょう
海の1メートル上の風はオゾンをいっぱい運んでくれる
昔薬が豊富でない時代結核には薬なしと言われ
宮島の対岸に施設ができたとき
海岸に1時間座らせる治療法がありました
今日そこへ行きます
後で写真を送ります
キット裕美さんと行きましょうね。
]]>85歳で乳離れできない甘えん坊
恩師や知人、友人の言葉もあるが
学歴のない私には母の言葉すべて
小学校1年の時原爆ですべてが一変
物心ついた時、勝った勝ついう声が
やられた、やられた呉が大変
今度は広島、3年生以上は集団疎開
中学生は学徒動員、様々な場所に配属
私たち小学校12年生は縁故疎開
私たちは一変して農家の居候に
我慢することを覚え、働くことを覚えた
まず子守、洗濯、掃除
4年生になると、野良仕事、山仕事
荒れ地の開墾、野良仕事はつらい
朝は夜明け前から、昼は外で、夜は夜なべ仕事
縄をなう、秋は草履作り、家族全員のを作る
その時は継母ではと思っていた
今は感謝の気持ちでいっぱいです・
廣枝
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運命は自分で切り開くものだと;;;
旅館の女将さんから、農家の居候になっても
また鉄砲玉の届かない農村で子育てをする
なれない手にカマを持ち鍬を持って
必死で生きて、耐えること命の尊さを教えた
今でも心に残るこの言葉
「動物は本能のっまにしか生きられない」
しかし人間は耐える力、知恵を使い分けることができる
親子の愛、兄弟愛、友情、考える知恵がある、善、悪の分別が付く
日進月歩という言葉がある
それは人間が生きてきた証なの
人として生まれてきたからには多少なりとも人様のお役に立って
人様のお役に立つということはね
何かをさせてください、へりくだることではない
何かをしてあげたおごった気持でもない
今お前にできることを一生懸命努力する事。それでいい
私はこの問いに答えるために::::平和公園に立った
お母ちゃん只今と言える生き方をしたい。
この山中の途中で私はかけがえのない出会い
裕美さんさん人生登山の7合目で出会ったのでしょう
貴女は東から私は西から、偶然の出会いに心が結ばれたのでしょうね。
声を合わせて叫びましょうか、今生かされる喜びを、生きてる喜びを
どうぞご自愛されまたお会いできる日を楽しみに;;;
かけがえのない大切な
愛おしい裕美さんへ 廣枝
廣枝
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そお言って旅館の女将さんから農家の居候になり
子供たちを守るために経験のない農家に
いつも笑顔で、乗り越えられない試練は神様は与えない
貧乏暇なしガンバ、ガンバ、
お前だから乗り越えられる試練を与えて下さるんだよ
自分がしごいていて、神様のせいにする
この人継母化もと思ったりした
でもその時鍛えられた体力と精神力は
私にどんな境涯に会っても
今日上昇る朝日に手を合わせ生かされてることに感謝
感謝気持ちは、情熱に変わる、その情熱で生きていくのよ
不平、不満を爪の先に少しでも残すとね
一先は真っ暗闇なの、不平不満の心からはなのも生まれない
強い逞しくも厳しくもまた優しくも7変化を持つ母が
今の私を作っている
今も聞こえる
食べるだけなら野良犬、畜生でも生きていくんだよ
お前は言葉をもらった最高のところへ生まれてきた
いつか親孝行したいと思う時が来たら、周りの人にやさしくしてね。
この言葉は私の心から一瞬として消えない。
自問自答しながら私は今85歳自作自演人生から::::
今、信頼できる同志として人生峠を登れる幸せを与えてくれた人
お早うございます、今日も一日お元気で
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裕美さん今日から早速始めます。
母が思い立ったら吉日、なんでもすぐに取り掛かれ
一晩寝たら情熱は覚める
鉄は熱いうちに打てという言葉があるように
想いもよほどの決意がないかぎ地すぐに覚める
今10時半になりそうです。
でも決意表明します。
裕美さんかけがえのない親友と呼んでもいいですか。
私は今日6月9か金曜日新たな旅立ちの記念日にします。
私は85歳、後輩に譲り気ままに過ごすつもりでした。
我が社専務、大中、を始め、片山、大紀、3人に
広島では毛利元就伝説があり、後継者が3人出来たらよし
1本の矢は折れても、3本の矢は折れないという伝説があります。
その三本の矢に卑等しい3人に恵まれ、幸いに思います
ここで何ができるか模索中ですがきっと
戦前、戦後を見て、体験したことを語り継ぐ使命と責任
これを果たさなければいけない使命があると
改めて自覚し方針を決めて大地にしっかり足を下ろし
歩いていかなければと、この身に言い聞かせ
母の遺言を守りたいと思います。
大好きな母の懐に只今と帰るために:::
そして親友宏実さんと思いを共有するために
おやすみささい。
廣枝
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師匠であり、また姉の様に可愛がり、人としての道を教えてくださった方の
ご子息から電話がありました。驚きとうれしさに涙がこぼれました。
一日過ぎたのに亡きお姉さんのお顔が浮かんで胸キュンです
この人生の中で85年生かされてたった一人の人でした。
日本ではなくオーストラリアーからの電話、踊りだしたくなる気分
人は年齢に関係なく、うれしい時は心浮き浮き舞い踊りだす。
久しぶりにホットなホットな気分になりました。
その人の名は 絵本作家森本順子先生です。
初めての出会いはピースボートでした。
10人ずつの班に分かれました。
自己紹介が終わると、貴女班長をやりなさい、
すぐに拍手起こり決められてしまいました。
勝気な私は条件付の班長を引き受けました。
9月8日から1月14日広島に帰りました。
初めての出会いで野蛮人とぴしゃりとたたかれた愛
他人様にたたかれたことのない、
私は相手の顔覗き込み見つめてたものの
その目は優しく、あのねコーヒーを頼むときはせめて
「エックスキュズミイー」と言ってから
そんな思い出が懐かしい
私の大好きなお姉さん天国で安らかに;;;;;
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本の出版は3月20日までに原稿を寄せてくださる方ので実施します。
ヒロシマの心4はページ数も零編通り出版冊数も例年通り、配布先も例年通りコロナに左右されず
実施いたします。
資金については共同募金「赤い羽根」もきっと困難だと思います
しかしすべてはスタッフで負担しても実施することにいたしました。
そして今年は若い世代からのメッセージに加えヒロシマの復興の歴史を追加したいと思います、
コロナに負けないで乗り越えていくためには。原爆のあの恐怖の中から立ち上がった人々の
明日に生きる逞しさすばらしさを手本に希望の明日にたくましく前進していきたい願いを込めて
私たちスタッフ一同前進してまいります。
まずはお正月の慰霊事業からスタートします。
どうか見守っていてください。
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私が仕事、仕事で朝から晩まで働く中、子育てはすべて母でした、
生まれて3ケ月母乳を飲ませたらあとは母の部屋に連れていかれたものです、
57歳になる長男が
ばあちゃんの言葉これあっとる と突然のメール
自分の手を見てごらん
指が5本あるだろう
反対の指にも5本あるだろう
腕は2本 脚も2本 目は2つ 鼻が1つ口も一つ耳は両方日ている
人に会ってお前にないものはない
もし人に出来てお前に出来ないものがあるとしたら
それはお前が努力が足りないから
人に出来てお前に出来ないことは何もない
これに付け加えるとしたら好きなことに力を注ぎなさい
これで会ってるかと聞いてきて本当に驚いた
この言葉は母の口癖の一つでもあった
長男の心に母が亡くなって40年になるのに母の言葉は私にも
孫たちの心にも残っているのに驚いた。
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そこでこの2日間頭の中を整理して言葉で残すことに決めました、
娘からビデオを借りてsgカード自分で買って一人でしゃべり一人で録画して母の言葉集を残していこうと決めました。
私が母親信仰で母の遺言を守るために活動した35年の歴史をどれだけまとめることができるか、初めての挑戦です。
おおよそ半世紀の記憶をどれだけ思い出し人で様に伝えたい言葉がどれだけ浮かんでくるかまた年代があとお先になったりするかもしれませんが、私の心に、頭に体にしみこんでいる母の言葉を思い出しながら挑戦してみます。
それを動画でブログに乗せることができるか挑戦してみたいと思います。
まず準備をして来年1月から開始したいと思います。
それまで少しずつ箇条書きにしていきます、
1、年生入学の時 1、2年生 3、3年生 1、4年生 1,5年生 1、6年生
1、中学生 1,2,3、母の入院のため父親との生活、中3の時母との生活。この間の母との思いで言葉はただ一つ
人様の情けに都賀らず自分の力で生活することだけを教えられた、
他の家庭では民生委員のお世話になれば義務教育は受けれれるのに。母はそれを拒み働くことを教えた。
母が市民病院に入院した時父が私たち3人を引き取り沖美町へ母退院すると再びヒロシマへ観音中学に転向通学は2日だけ
私は学校生活は父と過ごした中学2年生一年間だけでした。中学3年生の12月北海道の母の妹に3年4ヶ月預けられる
開拓団の部落北中標津の酪農家で自給自足の生活を体験する、そこの厳しさが、母を恋しくなった原因になり以後私は母と
そばを離れることはなかった、共に結婚も子育ても仕事も、母と共に歩いた。、この強いきずなは何だったのだろう。
そして母の遺言を守るためにわが道を行くわがままを家族も姉妹も支えてくれる。
私は決していい母親ではないと思う、結婚式までw3あたしの責任結婚して家庭を持てば、自分で選んだ道を自分で歩けと
ただ遠くから見守るだけだった気がする、しかし子供たちは私を大事に野放しにしてくれる
尾までも私は私の道を思いのままに歩いてる、、それでもいざという時は駆けつけてくれる。
私はふと思う母に育てられた母親信仰と思っていたのはひょっとして子供たちに支え育てられ、孫たちに支えられ
今の活動ができてる。母親信仰と言ってお母ちゃん只今といえる人生をあるきたいいいや歩くのだと力んできたが
それを見守りつ図けてくれてる姉妹,我が子、孫たちの顔が浮かんで目頭が熱くなる。
よかった京菜での自分を振り返ることができて、
母の言葉を残せと言ってくださった谷本先生ありがとうございます、
私は自分の周りにさえ目を向けずがむしゃらに歩いた35年を振り返ることができたこと本当にありがとうございます。
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1戦時中旅館で本当に忙しい中で753のお祝いに7歳の私に振袖を着せてぼんぼりのついた肩幅より大きいお太鼓帯
頭にリボンをつけて、5歳の弟には素敵な洋服を着せて、人力車で二吃神社にお参りに行ったこと普通の屋さアしい母親ですよね。
戦後丸裸になり長男を失い農家の居候になっても悲しい苦しいの言葉は使わぜ笑顔は絶やさない人でした、
着るものにしてもいろんな歯切れで私たちはいつのお母さんの手縫いのワンピース冬は手編みのセーターをきょうだいぜんいんに照れる、お祭りとかお彼岸、運動会、のお弁当そして珍しいお菓子、やようかん、お月見にはお団子、すべて手作りとっても私にはまねのできない今日な人でした、
しかしそんな中で本当に私には厳しい母でした、でもそのおかげで今がある、
寝ても覚めてもやはり私は母と二人三脚の人生を歩いてる
小学校だけでも心に残る言葉は数え切れない、そこで私はパソコンのできる人を頼んで動画にして部露木に乗せたいと思います、
まずはその準備に取り掛かります、
谷本先生との約束母の言葉を書き残す作業にかかりますと約束はしたものの約50年近い思い出をとてもすぐには書けませんね
でもどんな形にしてもあきらめずに挑戦していきます、見守っていてください。
]]>5人の子供を育てる中で私もしっかり私の心の言葉を残してやれなかったこと残念にpもいます、
自分が学校に行けたのは小学校6年まで、中学は参考中学校に3ケ月3あとは北海道へ弟を向えに一人旅の冒険
その間学校は休み、中学2年生は沖美中学校に転校そこで京阪神への修学旅行を体験、その後中学3年生で観音中学へ転校
現場仕事を経験する、12月北海道中標津中学校卒業、しかし学校へ行ったのは一週間もなく卒業そして18歳で広島母の元へ帰る
求人欄は新聞一面あってもすべて高卒以上この現実に私は人間差別を受けた気分つらい時代を自分に出来ることを探し必死に
生きた青春時代、わが子には自分の体験をさせたくない、5人の子供たちに学歴が絶対といい勉強勉強と押し付けた
しかし次男坊だけ学校が嫌いと中学で私を困らせた、仕方なく遊び友達から離すために離自衛隊に、しかしその子が今は出世頭
学問にこだわる必要がないことを身をもって体験した。
母が私を鍛えたのは人間として勇気と冒険心をもって多少なりとも人様のお役に立て、剤のこだわるなお金にこだわるな
お前に分がなければいくらためてもお前に身にはつかない、それより人間らしく生きて行き倒れても他人様にハンカチ一枚かけてもらえるような人生を歩いてくれ。勇気と冒険心をもって獣道を歩いてくれないかそこに本当の宝物がある。
今だからこの言葉の意味が分かる、私は子供たちに名のも残せてない気分、今から、今から母の言葉を皆に残していきたい。
後で手直し、今から出かけます
]]>電話交換手をしながら好酸治療の勉強して免許取得妹を連れて困っている人をし無料で訪問し治療していたそうです
その電話の交換手で広島からっ大志を抱けの精神で、佐伯町の田舎から開拓団に交じって根室に行った、
明治36年生まれの父と出会いう。父は農家の長男で百姓には学問はいらない親の言いつけで小学校5年生までしか行けなかったそうです、本州の端、北海道の端、生まれも育とも環境も違う二人が出会い、母は長女という立場、父は長男、二人はしがらみのすべてを捨てて恋をし手に手を取って本州へ、釧路を過ぎ、小樽を過ぎ、狩勝峠を超える機関車の音がたまらなかったといいます。
しかし二人の決心は固く二人で人生を生き抜く決心をして函館から連絡船に乗ったそうです連絡船が出航するドラの音を聞き港を
北海道を離れるときはさすがに涙があふれたといいます「親不孝お許しください、でも自分らしい人生を歩きます、今日までありがとうございます。 と涙が止まらない中で北海道を見送りながら悔いのない人生を生きると誓ったそうです。
そして青森に着きホームに出ると、「番頭さん募集、売店の店員さん募集」も文字が目に飛び込んだといいます、
「浅虫温泉、青木旅館、ふぃたりは迷わずそこへ行ったそうです。そして6年間兄が6歳の時広島へそこで義兄のすすめで三川町に
「長木屋旅館開店、そこで私が生まれる、自分が故郷を捨てたので私には、父の里子の広島に枝を張って生きてくれ、願いを込めて
広枝となずけた、そして14歳から17歳まで私を北海道に預けそれ以後は結婚してもずーと母と二人三脚の人生を歩きました。
母が亡くなっておおよそ40年近くなります、それでも私は今も母親信仰母と二人三脚の人生を歩いたいます・
今日はこの辺で私は母のことを話すとブレーキーが壊れるのです
]]>1 縁故疎開佐伯町の父の実家に一人預けれれたとき
2初めて両親兄弟からはねれて暮らすには少額1年生の私にが我慢することを覚えた
3小学校へ母に連れられて本当に1年生になったとき
4その時の母の言葉、「小学1年生になったことはもう子供じゃない「小学生という学生になった。
先生のお話が聞けるお勉強もできる、、何も心配することはないよ、お家のお父さんお母さんの代わりをしてくださるのが
先生なの。先生を好きになってね好きになればなるほど先生の言葉がよく聞けるのよ。
だけど耳には穴が開いてるでしょう、みぎの耳で聞いたら左のスーと逃げる左の耳で聞くと右に逃げる
両方の耳で聞けば心にもう1つ耳ができる、心の耳で聞いたことは忘れない、今度お母さんにあったら話して聞かせてね、
私はその母の言葉に、心にリックサックを持ちました、そして母に伝えたいことはりっさくさんお願いとジx門をかけていました
だからその癖がついて母の言葉を人一倍覚えています。
3つ後の魂100までのことわざがありますが習慣とは本当にすごいと今つくづく思います。
今日はこの辺で明日から学校生活に入ります
]]>うーうんー返事をしながら枕もとを見ると、
黒い肩つりのついた紺色のスカート、と白いかいきんシャツがきれいにたたんでおいてある
これ制服だ、一度に寝ぼけが吹っ飛び、手に取って抱きしめた
い年生になるんだ、同省もないほど心が弾む
うれしくてしょうがない
懐に抱きしめて台所へ
湯気の中で母の頬かぶりの姿が見えた、広枝今日から一年生、学校に行けるの、
そうよ博を起こしてご飯を食べて着替えなさい、
ハーイ大きな声で返事をして廊下を歩きながら
ひろし君。起きて,ひろし君起きてなボケる弟を
優しく起こし手ぬぐいを練らしてきて、かおお拭いてやる
どうちゃんと目を覚ましたと食卓に。湯気は出ていないが、お味噌汁、ご飯と、大好きな卵焼き、
大急ぎで食べて部屋の戻り制服を着て弟にポーズをしてみせる
白い服、紺のスカート、白い靴下、白い靴。玄関に立つと別世界
うれしくってたまらない、母の矢絣の着物からこぼれてくる優しい笑顔、さあ、行くよ、
ハーイよそ行きの声をよそ出して母の手を握る
道路に出て速足で歩く母にスキップしながらついていく
鼻歌が飛び出す
皆で学校うれしいなー国民学校1年生
皆で体操一。ニー三、国民学校1年生
竹谷小学校についた
入った部屋は大きなかご、そこへ服を脱ぎ皆なぱんつ1まいのはだかんぼー
1体重測定2身長測定3白衣を着たお医者さんが頭に丸い鏡を付けて怒値をあーん。胸に聴診器を当てよしー
それだけ服を着て母の元へ、
あのね子供の命を守るためにがっこうへは行けないのお家でお勉強するのよ風呂敷包みを抱え手を引かれて帰るさみしい思い出
竹屋小学校のおみもいでは門をくぐり身体検査だけ、先生も教室の知らないい戦時中の1先生の体験はさみしいものですね
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「失敗を叱らないで受け止める大きな母の愛」
待ちに待った小学校の一年』
お向かいの康子ちゃんと
おじゃみ、おはじき,けんけん、ゴム飛び。ビー玉。かくれんぼー、鬼ごっこ
どんな遊びをしていても別れ際にはあと何日
もういくつ寝るとお正月の歌を1年生に代えて歌いながら
指折り数えて一年生になる日を夢見ていた
康子ちゃんと弟を荷車に乗せて、からころからころ走らせ竹屋小学校へ
もうすぐ一年生どんな学校か親に内緒で見物の冒険、
二人は小さくうずくまってしゃがんでいる
私はおかまいなしにお兄ちゃんに教えてもらった道をまっしぐら
桃谷さんの病院まで言ったら左に曲がり屋、あとはまっすぐいけば竹屋小学校
聞いた、通りに行ったのに道に迷ってさあー大変
だんだんい日が暮れ帰り道がわからない、
康子ちゃんは泣き出す、弟はじーとわたしの顔を見ながら辺りをきょろきょろ。
私も少し不安ななりながら来た道、桃谷医院を探してた
突然大きな声が聞こえた、いたよ。いたよ、兄の声
ここですよ兄が大声で叫ぶ
母と康子ちゃんのお母さん割烹前掛けをしたまま小走りに駆け寄ってくる
よかった無事でと康子ちゃんを抱きかかえるおばさん
母は一発目にダメでしょう、心配掛けて、どうするの迷子になったら、
よそさんの子供を連れだして、事故があったらどうするの
今まで聞いたことのない厳しい声だった。
しかしたたかれもせず、2度と心配かけないでね みんな心配したんだから
と手を引いて歩き始めた、暖かい母の手、張り詰めた心が抜け殻の様にーー
前を兄が弟載せた荷車を引いてあるいてた
私は自分に腹が立って悔し涙か何かわからない、わくような涙がぼれて止まらない
初めての失敗の思い出
]]>
私が母のことを話すと母の言葉を書き残しておくといいよ、いつか子供たちに話したらと言われ、始めました。
でもだらだらと書くのは大変なので箇条書き,あるいわ散文詩、か迷ってます7
?初めてのお使い「6歳の時」
仲良しもお向かいの康子ちゃんと遊んでる時
母の声
広枝ー広枝ーちょっと帰ってーと手招きしてる
はーい大きな声で返事をして駆けつける私に
お前組合わかるでしょう うんーとうなずく
お使いして、といいながら荷車に大きなバケツを2つ積んで
長木屋旅館から来ました、というと積んでくれるからね、
積んでもらったらお礼を言って帰りは決して走ってはいけないよ
いいかい今日はお家の代表で行くのだから挨拶は忘れないでね。
はーい元気の良い返事をして荷車を押しながら
こんにちわ、長木屋旅館から来ました、 ありがとうございます。
と練習しながら組合まで走りました。
おじさんの顔が見えると、思い切り大きな声で、こんにちわ長木屋旅館から来ました、
するとおじさんがおー元気がいいね広枝ちゃんわーと頭をなでてくれました、
積んでもらうとまた大きな声でありがとうございます、と頭を下げた
するとおじさんがまたまた、おりこうさんだねと頭をなでてくれた
ちゃんとできた、ほめてもらえた、踊るようにうれしかった
早くお母ちゃんに知らせたい、ちゃんとお使いができたことを、帰り走ってはいけないの言葉は…天高く飛んで行った
一目散に走った、ただいま、母がほおかぶりを姿で台所から飛び出してきた。
こら、広枝帰りに走ったでしょう。もの凄い大きな声、私は荷車のバケツの中をのぞくと
お豆腐が三角四角、粉々になってポカリポカリと踊っていた。
てっきりたたかれる、両手で頭を抱えしゃがみ込んだ。
でも母はちゃんと挨拶できた、小さい声で「うん」とうなだれた
その肩を優しく抱くように押し出し遊んでおいで私はとぼとぼと表に出た。
日が暮れて食卓に入る私の足取りは重かった障子を開けると皆なテーブルを囲んでいた
浮かない顔押している私に母は笑顔で広枝今日はご苦労さん、お前は立派に役目を果たしたのよ、
不思議な顔をする私にお豆腐とほうれん草の和え物を見せた、すると母はすかさず、
田舎から送られたほうれん草があったので和え物にしたの、兵隊さんのおかずは3品と決められてるから。
と優しい笑顔で迎えてくれた私は思わず母の首に抱き着いた、。
初めてうれし涙をこぼし、母が本当に大好きになりました。
その時もらった言葉人間には知恵があるのよ、その知恵はいろんなことを工夫することができる
私はその言葉を今も忘れられない。
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ところが小学校の門をくぐると待っていたのは身体検査とm親類、友人の、、知人
のある人は底絵疎開しなさい。教室に入ると3年生以上は集団疎開誰もいません
そして私は父の実家にあづけられることになりました。
数日して母に連れられ佐伯町の父に実家へ母がおじいさんに私を頼み帰り支度を
私は母のそばを
離れられませんでした、母は私の肩を抱いて返事は大きい声でするのよ
そして自分に出来ることはお手伝いするのよ、自分のお茶碗は洗えるでしょ
外庭の畑帚で履けるでしょう、いいかい可愛がってもらわないとお前がつらくなる
出来ることはお手伝いするのよ
手提げをもって外へ帰る糸汁母のもんぺいをつかんで離さない私にいいかい
預けられる重茂のつらいだろうが預けるお母さんはもっとつらいのよ
こうしなければ生きていけないの
その言葉に私もんぺいに裾を離しました、
しかしつらくてなよ奈良の言葉が出ませんでした
母の牛る姿が見えなくなって初めてさようならと叫んで手を振りました
玄関の上り口の2畳の部屋に木の小さな机のお布団が一枚引いてあるがけ
枕元に寝巻がたたんでおいてあり一人で着替え、おやすみなさい今にいる
おじいさんとおばさんに挨拶をしてお布団に入るとなんと今まで聞いたこともない
カエルの合唱が聞こえる、げろげろ、ゴロゴロかひっきりなしに聞こえてきて
私も枕をぐっしょり濡らししゃっくり下出るほど泣きました、
]]>一行も書いてない、ブログを麻守っていてくださった方々ありがとうございます、
これからは日記代わりに少しずつ母の思い出を書いていこうと思います。おやすみなさい
]]>どうかよろしくお願します さぼらないよう見守ってください。
もともと文字嫌いな私が順子先生に強制的に日記を書され手書いていました、
4年前天に召されてから私は風呂着と向き合えなくなりました、
年度挑戦しても3日坊主頭でおおなまけ、でも機能ある人に出会い、
今一度母のこと忘れないうちに書き留めようと思いました、
最初に
物心がしっかりついた6歳の時のことからです、
私の生まれた家は広島の中心地服や百貨店から数百メートル三川町37番地長木屋旅館の長女として生まれ
「昭和13年5月27に生まれ何一つ不住のない生活でした。
家族は両親、7年生まれの兄、弟15年生まれ、妹18年生まれ、6人家族、かし、家にはまかないさん、中井さん、お手伝いさん
にぎやかな中で私が一番わがまま、でも可愛がられて少女時代を過ごしていました。
6歳のある日兵隊さんが大勢入ってきて皆大騒動ん 「広枝」」母の大きな声、振り向くと、お前組合わかる、、と聞かれ
うん、わかると答えると、お使いに行ってきて、ついて裏口に行くと荷車に大きなバケツを2個積んで組合にいつ的手おじさんに電話しとくからね74、いいかい広枝、今日は本当に忙しいお前しか手の空いてるものがいないからお使いしてね、
いいかいおじさんのあったらちゃんと挨拶をするんですよ,お家の代表で行くのだから、こんにちは、長木屋旅館から来ました
。積んでもらったらありがとうございます、お礼を言って帰るのよ、でも帰りは決して走ってはいけないよ。
わかった、うなずくといってらしゃい、
私は、子供ながらにお家の代表で行くなぜか心が弾み、こんにちは、長木屋旅館から来ました、差最後にありがとうございます、
荷車をおしながら何度も繰り返し練習をして組合に行きました。
おじさんの顔が見えると、大きな声でこんにちは、長木屋旅館から来ました、大元気がいいねと笑顔で頭をなでてくれました。。
積んでもらう炉ありがとうございます大きな声でお辞儀をするとまたおりこうさんだね、と頭をなで毛くれました。
心な中で、ちゃんとできた本当にうれしくなった早くは橋知らせたい一心で走り出していました、
からこら、からこら、走り裏口にとくと重い気x理大きな声で只今と叫びました、
ほほ被りした母が飛び出してきて、ぬごる魔の中を見るなり,お前帰りに走ったでしょう走った。どうしてわかるん。
母が台所絵入ったとき荷車のバケツを覗くとお豆腐が参画資格にちぎれぷかぷか浮いたりしていました、
私が一瞬たたかれると思い、両手であたまを抱えしゃがみ込みました、しかし母はバケツを下ろしもう遊びに行ってもいいよ
不思議に思い覗いていると桶におおきなざるをのせ、ザバーザバーとうつし覗ながら遊んでおいでと言う。
外へ出て友達と遊び重たい足取りで買えり食卓へすると母と顔が合うといきなり今日はご苦労さん、失敗したのに
なぜ叱られないのだろう、恐る恐るテーブルに座るとっ母皆の前で今日はありがとう。お前は立派に役割を果たしたよ
小鉢を私の見せた音王府とほうれん草の和え物だった、
兵隊さんのおかずは3品と決まってるの、それが出せたからご苦労さんお前はちゃんとやくわりを果たしたのよ。
その笑顔に私は母の首に抱き着いていました、「初めてのお使いの思い出」
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