ショックでもう立ち上がれません。
なれないことは真剣にやったつもりでも空になり消えていくのですね:
今日は自分の未熟さを反省しながら悔し涙を流します。
明日っから気を取り戻してガンバ、ガンバします。
私は被爆体験者としての使命と責任を感じ自分の見た、太平洋戦争、
戦前戦後のヒロシマの事を物心ついた4歳から85歳の現在までの記憶をたどり思い出せる事
書き残したい衝動にもがいてます。
文字嫌いな私、戦後中学にも行けなかった嫌な思い出から、文字に触れる恐怖症になっていました
文字に向かうとまず、頭痛、恐怖に襲われ平常心で無くなる
肉体労働の道を選んだ恥なのに、いつの間にかいいえ、70歳の時ピースボートで出会った
ヒロシマの女学院卒、オーストラリア在住のもりもと順子、絵本作家とのご縁でパソコンで
まずメール、スカイプを教えられオスとラリアから我が家へ3ケ月、4ケ月滞在して教え
ご褒美に、ある時は大阪経て白浜に、ある時は大阪京都、また九州、佐賀から天草四郎、島巡り
時にはヒバ山を越えて足立美術管、玉造温泉、松江城、、石見銀山、日御碕灯台、
とにかく色んな所へ今も目を閉じればはっきりと思い出します。
森本順子先生「絵本作家」は師匠でもあり、姉であり平和を愛する同志でもありました。
今パソコンが触れるのもみんな森本順子先生のお陰と心から感謝しています。
人との出会いで人生は変わるものですね、
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広島市の中心部福屋店の近く三川町37番地長木屋旅館の長女として「昭和13年5月27日誕生」
両親は結婚して数年子供ができなかったので、知人から赤ちゃん、男子を養子長男としてもらい受け
育てていました、6年目初めて母は私を長女として出産しました。
それを弾みに弟、妹、妹と出産します。
そして私が4歳の時太平洋戦争がはじまります、こど?っもの私も勝った、勝ったという声を聴きながら
なぜか我が家では食事の前に、合唱する親指と人差し指の間にお箸を載せて、「天皇陛下さんのご恩
兵隊さんのご恩、よく噛んで頂きますの挨拶をして食事が始まります。
そして何不住なくわがままに育てれれた私は竹屋小学校の1年生になります。
身体検査が済み、赤いランドセルに学用品、運動靴、上履き、を買ってもらい、
「みんなで勉強うれしいなー」「みんなで体操1,2,3」、国民学校1年生このフレーズを繰り返しうたったものです。
うれしい、うれしい1年生も、つかの間、4月に呉が大空襲、今度は広島3年生以上は集団疎開。
1-2年生は縁故疎開、知人、友人、身内の無い人だけの登校許可、あとは縁類に避難。
私はたった一人で父の実家に、家族から離れて初めての夜の寝床に入ると、玄関席の3畳に机一つ、薄い布団上下
寝巻、可愛い枕が一つ、母は一晩も止まらず私を置いて帰るという、私は外庭までついて出て母の着物の裾に
しがみついた手を離せなかった、
母はしゃがみ込んで私の方に両手を載せて「いいかい預けられるお前もつらいだろうが預けるお母さんはもっと
辛い、しかしこうしなければ生きていけないの、7歳の私も生きていけないその言葉が重くのしかかり、
我慢することを覚えました。
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ブログを書かされていました。
先生が亡くなるとぷっりやめてしまいました。
しかし今また再度文字に向き合いたくなりました。
それは遠くからそーと私を見守り事あるごとに東京から広島に駆けつけてくださる
下向きな人間愛を感じる、優しい笑顔を注いでくれる姿、言葉少ない瞳の中に、肉親のような親しみを覚える
この度、思いを共有し何か、戦争、原爆、復興、どんな境遇に生かされようと、
平和公園を建設し、世界平和実現への一歩を踏みだした先人の方々の道するべを
私たち被爆者はどうあるべきか自問自答し何か今できることはと言葉にしてみた
被爆者でない彼女も共鳴し、今被爆地から世界へ発信できることは、
1戦争は愚かなこと、原爆、核兵器は絶対悪、人類と共存できない、
今ヒロシマ人としてまた被爆者の一人として、何ができるか、
真実を語り、戦争は愚かなこと、核兵器は絶対悪、約50年前で有っても「4キロ四方」を一瞬にして灰の街へ
日進月歩していく中で科学兵器、原爆、水爆は地球破壊、人類の破滅につながることは間違いないと思います。
私たち被爆者の声はどうしたら世界へ届けることが出来るでしょうか。❓
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そうですね。
こんな姿を天国の大紀が見たら悲しんでることでしょう
大紀は小学生6年生ごろから学校へ行く前に私のところへ来て
パソコンを教え一緒に朝ごはん食べ帰りにはまた来ていろんなことを教えてくれ
中学しか出てない私が、かたくなに文字のない世界で生きると決意してるのに
7番目の孫奈笑が私の日記を本にしてくれた、以後9番目の孫が数冊今天国へ召された
11番目の孫が数冊出版させてくれた、私はただ、ただありがとうと言う15年が過ぎた
振り返れば3人に孫たちに支えられ今日まで何年になるのだろう、、、
記録は残っているので調べてええばわたる
夢中、でなりふり構わず思いのままに回いを重ね来年50周年になるのではと思う
それまで元気で後輩に広島市民平和の集いを継承したい。
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大紀苦しみから解放されて宇宙に羽ばたいていますか。
おじいちゃん、おばあちゃん森本順子先生に会えたでしょうか:
キット優しく暖かく抱きしめてくれたでしょう。
皆大紀が大好きだったから;;;;;
ままはやっと涙が止まりました。
そしてこれからも大紀と二人三脚で活動を継続していきます
東京の裕美さんが支えてくださると約束してもらいました。
ままは、命ある限り今の活動を続けて行きます。
母が原爆で兄を奪われた時今の平和公園でお骨を探しながら
私立商船学校の生徒全員材木町付近でたれもの疎開作業中と聞き
その付近のお骨をこれは秀幸、これはお友達少し大きいのは先生、
いいや全部、秀幸、お兄ちゃんと言ってかぶっていた、日本手ぬぐいに
包んで持ち帰り木の墓碑用を立てました。
あの灰の町広島は今も瞼に残っています。
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大紀がラインくれた最後の言葉
「ママがいてくれて本当に幸せでした」
このラインをくれたとき大紀自分の命の終わりを悟ったのですね
岡山と広島では飛んでいくこともできず
駆けつけたときはもう無言でしたね。
でも大紀は私の心の中には永遠です
生ある時も天に召されてもママの心の中には大紀は
愛しい孫であり平和を愛する同志であり師匠でもありました。
最後にメール、に残してくれた言葉
「ままがいてくれて幸せでした」
この言葉を抱いて命ある限り前を向いて歩いていきます。
どうか天国から見守ってください。
優究太然居士
俗名大紀
まーまより
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始めに
両親のロマンから
父は広島の山間部斉木郡津田村字花上旧家の次男として生まれた。
分家に子供がないので養子長男として迎えられた
昔は財産を守るために従妹同士の婚約、断る勇気がなく思いきって家出をした
ちょうど隣村から北海道開拓団の応募がありそこに入団して根室に着いた
そして家族に無事でいることを知らせたいと電報電話局に行った
そこで女学校を卒業して電話の交換手をしていた母と出会う交際が始まる
母は長女で下に妹が4人弟が2人祖母は未亡人で泉山家の柱的存在だった。
お互いが好きになり家出を決意するほど惚れてしまったと言う
根室から夜汽車乗っての駆け落ち母の話では決意して家出したものの
連絡船のドラが鳴り汽笛を聞いた連絡船が北海道函館港を離れだすと
さすがに涙があふれ出たという甲板から北海道に手を合わせ「親不孝をお許しください。」
私は自分で選んだ道で必ず幸せになりますからとしばらく立ち続けたという
父も家出、母も家出、行く当てもない。
青森に着いたストーブに当たりながら思案していたら1枚の張り紙が飛び込んできた,
その紙には 店員さん、下足番、募集 浅虫温泉、青木旅館、電話番号が書かれてたと言う
そこで二人の新婚生活が始まる、「今日はここまで」
]]>なぜ、なぜ、と自分に問いかける
何事に対しても
熱く燃える情熱が湧き上がらない
以前は信念岩をも通す
この言葉を軸に何事にも真剣に取り組んできた
そうあれは5年前コロナにかかり入院生活で
私の何かがくるってしまった、
今思い出せばはっきりと思い出す
8月8日自転車で転倒右ひじの複雑骨折全身打撲
12月27日やっと退院
それから人格が変わった
何かに取り組む情熱がどこかえ、、、、
でも人生はやっぱり楽しいもの
新しい道が見えてきた
仲間と言える同志と愛と平和の御旗を立てて
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天災、人災何でのおじゃれ
1度限りの人生を泣いたら負けだと教えてくれた
お母さん
広枝は85歳になりました
今もはっきり覚えています
この地球上に数え切れない命の中で
言葉をもらった人間に生まれたことを感謝してね
感謝から生まれる情熱で世間の荒波超えて行け
いつかお前ええが親孝行したいと思う時が来たら
周りの人に優しくしてね「それが母の口癖」
母が亡くなって3回忌を終え私は平和公園に立った
食べるだけなら野良猫だって食べていくんだよ
言葉をもらった人間に生まれたからにはね
多少なりとも人様のお役に立ってね
人様のお役に立つということは
何かをさせてください、へりくだる事ではない
何かをしてあげたおごった気持でもない
今お前にできることを一生懸命努力すること
それでいいんだよ。
今も聞こえる母の声、なぜか涙がひとしずく
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朝な夕なに尋ねてくれた
朝は1時間学校帰りは2時間ぐらい来ては
まず最初にアイウエオのローマ字を紙に書いてくれた
70歳の手習い初めてパソコンを触れた。
それはピースボート出会ったオーストラリア在住の森本順子先生「絵本作家」
との連絡が取りたいためパソコンを購入したのである。
そして毎日日記を書いたすると大学生になった7番目の孫が
ばあちゃんの言葉は私たちにもわかると言って本に字てくれた
私は題名を菜の花の様にと頼んだ、
息子が私にとって初めての内孫、息子が真剣な顔をしていった
母さんこの子の名前は菜笑と名付けたという
岩国の錦帯橋に桜を見に行った
そしたら桜も見事だったけど裾いち面に菜の花が咲き誇っていて素晴らしかった
1度の人生群れの中で笑顔で生きてほしい,菜笑となずけたよと言う
私は初めての内孫長男の思い道理にしなさいと祝福した
私は今5人の子供に、15人の孫15人の曾孫の囲まれ何不住なく一人暮らし
わがままなこの上ない幸せな毎日を送ってる
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高熱にうなされ、記憶さえ薄れ8月8日から12月27日まで入院
隔離のような状態で家族とも面会できず、ただ部屋でテレビだけ
看護婦さんが点滴、注射、と薬の配布、3時過ぎに1回、先生の回診、
頭の打撲と右ひじの骨折プレートを入れ8本のビスで固定半年で削除の予定
しかし退院時、先生の回診で言われたもう年だから今更痛い思いをせづ
このままにしませんか、私に問いただした、先生鉄板を8本のビスで止めてるのでしょう
そうだけど手術すると痛い思いと時間もかかるとのこと、私はそのままで退院、
今力は減少したものの、日常生活はヘルパーさんの助けで、ただ重たいものは持てない
でも家族に迷惑をかけず、一人で生活ができることに感謝をしています。
最近友人と連絡を取りながら何か新しいことに挑戦する計画を立てています
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プロジェクトを同志が立ち上げてくれました。
そこから平和への思いを発信し世界恒久平和実現の一助になることを祈念します
発起人 佐藤裕美 被爆者 佐藤広枝 私はNPO法人HPS国際ボランティアの代表をしています
「広島生まれ、広島育ち今年85歳の被爆者です、裕美さんのお陰で広島の真実。戦争。原爆そして
廃墟から立ち上がった人間の逞しさ、素晴らしさ、人間愛、また碑文に刻まれたヒロシマの心、私は
その言葉に感銘を受け38歳から平和公園に立ち「広島市民平和の集い」を引き継ぎ継続してきました
85歳の今この会を継承継続してくださる後輩に託す時期が来たと思います。
しかし被爆者が高齢化していく今、身体が動く限り活動を続けて後継者にバトンタッチします。
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母は根室でカニの缶詰め工場を営む泉山鉄蔵、母ハルの長女として生まれ
可愛がられ当時女学校卒で電話の交換手、職業婦人として働いていました。
そこえ父が広島から開拓団で根室へ父は電報を打ちに行って母と知り合い
家に招待されてるうちに恋が芽生え長女の母は許されず駆け落ち今井の張り紙で
広島に返らず、一枚の張り紙を見て浅虫温泉へ。張り紙は店員、下足番募集 浅虫温泉
二人はすぐに尋ね面接、即採用されて家まで用意して貰ったという、兄の誕生
6年間そこで働いて広島に帰ると義兄が旅館の経験があるなら旅館をしたらと
広島市の中心地に長木屋旅館を開業、兵隊さんを送って応援してくれました。
私はお嬢さんと言われて何一つ不自由なく可愛がられて国民学校1年生になりました
ところが空襲が激しくなり4月呉が大被害、次は広島、3年生以上は疎開
1-2年生は、縁故疎開、友人、知人、親戚のある人は、そこに疎開、そのほかの
の人だけ当校良し、私は父の実家へたった一人で預けられる。
我儘放題で育った私が初めて我慢をすることを覚えた。
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私は広島生まれの広島育ちヒロシマ大好き人間の85歳の被爆者です
年輪を重ね今伝えたいことが胸の中にたくさんある事に気付きました
ここで両親のことを少し話しておきます
父は広島県佐伯群佐伯町津田字花上旧家の次男で生まれました
分家に子供がいないので養子長男として分家に
しかし田舎では財産を守るために従妹と結婚を強いられ
妹の様に可愛がっていたタケヨをとても夫婦になれない。
当時北海道へ開拓団の募集があり結婚式の日が出発無我夢中で
その団体に入り北の果て根室に着いたそうです。
家族にせめて居所を知らせたく電報を打ちに電報電話局へ
そこで明治生まれの母は職業婦人として働いていて、
親しくなり祖母に紹介するとどこの馬の骨とも分からない者に
娘はやれないと断られ、二人は手に手を取って母のお金を頼りに家で
夜汽車に飛び乗ったそうです
行く当てがなくまず北海道を離れることを考えて連絡船に乗ったと言う
母はドラの音が鳴り汽笛が鳴ると船が岸を離れる。
そこで初めて親不孝をお許しください両手を合わせ涙が止まらなかったと言う
北海道、函館港が見えなくなっても甲板にたち尽くしたという
でも父に心底惚れてこの人に命を懸けると誓ったという。
青森に着き待合室に1枚の張り紙「店員、下足番、募集の張り紙、浅虫温泉」
二人はそこで書体を持った。
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10代のころ医師会の準看護婦学校にに入学したとき
担任の岡本先生の女らしさに引き付けられました
どうしたらあんなに女性らしいしぐさや笑顔ができるのか
私は中学3年生の12月〜19才5月まで4年間北海道中標津字北中標津
飛行場後の開拓団に暮らす母の妹の家に兄弟4人であずけられました
学校迄歩いて1時間地元の人たちは交通機関がなく馬。馬橇、スキー
私はどれにも乗れないまま中学3年生で1週間も学校へ行けませんでした
卒業だけは出来たのですが、英語も数学もちんぷんかんぷん。
母を往診してくださる先生の所へ住み込みで働き。准看護婦養成所に
入学し一生懸命頑張り、16人の責任者として逓信病院へ研修に、
しかしそこで頑張りを認められ、可愛がられたのが運命を変えました
乳癌の手ずつで私の持ってるホウロウうの洗面器に幹部を入れられ
それを見て私は気絶しました。
其れが許せず国家試験を目前にしたやめ広島バスへ入社
そこで学歴社会を知り以後自営に現在も独立独歩で生きています
そんな今出会った一人の女性に私はぞっこん惚れました
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